東京地方裁判所 平成5年(ワ)20172号 判決 1996年8月27日
原告
カワジャ・ジャビイド・ハミード
被告
中澤薫
ほか一名
主文
一 被告らは原告に対し、連帯して八六七万七四二九円及び平成三年四月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告のその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用は、これを三分し、その二を原告の負担とし、その余は被告らの負担とする。
四 この判決は、第一項に限り仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
被告らは原告に対し、連帯して二四七一万二五二六円及び平成三年四月二七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告が被告らに対し、交通事故による損害賠償を求めた事案である。
一 争いのない事実
1 本件事故
日時 平成三年四月二七日午後〇時二五分ころ
場所 埼玉県北本市宮内四の三二先交差点付近
加害車 被告中澤薫(被告中澤)運転の普通貨物自動車(群一一の一二八三)
被害者 普通乗用自動車(練馬五三て六九九〇、被害車)運転の原告
態様 右場所の信号機のある交差点で、赤信号で信号待ちをしていた原告運転の被害車に被告中澤運転の加害車が追突し、被害車が交差点内に約一七・四メートル突き飛ばされた。
2 責任
(一) 被告中澤は、前方注視義務違反及び制限速度違反により原告運転の被害車に追突したもので、民法七〇九条により原告に生じた損害を賠償する義務がある。
(二) 被告有限会社中澤金属製作所(被告会社)は、被告中澤を雇用し、本件事故も同社の業務遂行中のものであり、民法七一五条により原告に生じた損害を賠償する義務がある。
3 後遺症
自賠責保険においては後遺症は一四級一〇号に該当すると認定されている。
4 損害の填補
原告は、自賠責保険から七五万円、被告中澤から和解金として二五万円をそれぞれ受領している。
二 争点
1 損害
原告の主張は、別紙損害計算書のとおり。
2 素因減額(被告らの主張)
原告の症状には、心因性因子、経年性変化、モラル因子、本件外傷の治療、治癒に不都合な社会的環境といつた諸因子が影響しあつて通常よりも病態を複雑化、難治化させており、特に原告が精神科を受診して治療を受け、精神科的病名がついていることからすると、心因性因子が大きく影響していることは明らかである。
したがつて、その寄与率の分を過失相殺の趣旨により損害から減額すべきである。
第三当裁判所の判断
一 治療経過など
証拠(甲七、八、二二の1ないし84、二三、三一、三三の1ないし3、三四の1、2、乙四ないし六、弁論の全趣旨)によると次の事実が認められる。
1 本件事故当日に、医療法人誠昇会北本共済病院(北本共済病院)を受診し、頸椎捻挫、胸部及び腹部打撲との診断を受け、ポリネツク固定、投薬の治療を受け、平成三年五月七日まで三日間通院した。
2 平成三年五月九日に、原告の住所地に近い関東逓信病院に転院し、篠田医師の診察を受けた。
初診時の症状は、頸部痛、背部痛、両肩関節痛、頭痛、不眠、眼精疲労、視力障害、動悸であり、その後、平成四年八月一四日の時点で両肩関節痛、不眠は改善されたが、頸部痛、背部痛、頭痛、動悸は残存していた。
篠田医師は、原告と会話が十分できないため原告の症状を頸椎捻挫のひどい症状と考えていたが、平成四年八月六日の診察でバレーリユー症候群(外傷性頸部交感神経症候群)に気がついた。
3 その後、原告は関東逓信病院の整形外科のほか、整形外科の主治医である篠田医師の紹介で眼科、口腔外科、耳鼻咽喉科、精神科(平成四年一一月二〇日から受診)、循環器内科等を受診した。
また、原告は平成三年(一九九一年)八月一二日から同年一〇月一二日まで、同四年(一九九二年)三月一二日から同年七月一三日まで、同五年(一九九三年)七月、それぞれパキスタンに帰国して、治療を受けたが、平成五年七月の帰国は、篠田医師が精神科の医師と相談の上治療の必要から帰国を勧めたためであつた。
4 篠田医師は平成四年八月には、原告の症状は同年秋位でほぼ症状固定状態としてよいと思われるとの見通しを持つていたが、その後原告の症状は増悪した。そのため同医師は、同五年一月の時点では、原告の症状固定は同年三月ころとの見通しを持つた。そして、原告の外傷性ストレス障害による症状及びタクシー、エレベーター、電車、人混み等の空間恐怖、恐慌発作、抑うつ症状は同五年四月には軽症程度までに回復したが、同年五月に再び悪化し、再び中等度から重度となつた。そのため、篠田医師は原告にパキスタンへの帰国を勧め、原告は平成五年七月に帰国し、現地では精神科医の治療を受けて、同年一〇月再来日したが右症状は部分寛解まで回復した。
5 原告は、本件事故から平成六年一月二〇日まで合計八二日間、北本共済病院、関東逓信病院の整形外科等及び医療法人明芳会高島平中央総合病院(高島平中央総合病院)に通院し、同日症状固定との診断を受けた。
6 篠田医師作成の後遺障害診断書によると、本件事故の結果として、次のとおり診断されている。
その傷病名は、頸椎捻挫、外傷性頸部交感神経症候群、外傷性ストレス障害、めまいとされ、主訴又は自覚症状は、頭痛、頸部痛、背部痛、肩痛、閉所恐怖症、めまい、鼻閉、不眠、物忘れしやすい、視力低下、日常生活(家庭)の障害(夫婦生活障害)であり、他覚症状及び検査結果は、頸椎X―Pでは、所見がなく、MRIも異常所見がない、めまいも他覚所見がなく、頸部僧帽筋緊張強度、頸椎可動域制限(前屈三〇度、後屈一〇度、右屈一〇度、左屈一〇度、右旋回一〇度、左旋回一〇度)、視力低下、前歯欠損である。
眼鏡は事故後変更し、鼻閉は肥厚性鼻炎、耳鳴りは時々聞こえ(軽症)、外傷性ストレス障害は例えばエレベーター乗車不可で、空間恐怖を伴う恐慌性障害は、アメリカ精神医学会の重症度分類によると、恐慌発作の重症度は重症で、空間恐怖的摘回避は中等度であり、抑うつ状態は中等度である。
事故との関連及び予後の所見は、多彩な神経症状は外傷性頸部交感神経症候群と一致し、寛解、増悪を繰り返しているが、受傷後九三年四月には軽快したが、その後増悪、症状固定となり、長期の治療を要するとされている。
7 バレーリユー症候群は、眼、耳の症状、心臓の動悸、手足のしびれ、発汗、顔面紅潮などの自律神経症状が強く現れるものをいい、症状としては頭痛、頭重度、霧視、復視、眼精疲労、めまい、耳鳴り、難聴、動悸、心臓部の違和感、胸痛、声のかすれ、吐き気、顔面紅潮、異常発汗、手足のしびれ、記憶力低下、集中力低下など多彩な症状が現れる。
二 損害
1 治療費
(一) 証拠(甲二二1ないし84)によると、その治療費の合計は二三万六六六七円となる。
(二) なお、右の領収書の中には高島平中央総合病院のものが含まれているが、前記認定のとおり篠田医師が原告の担当医であつたこと、同医師作成の後遺障害診断書(甲二三)は、右病院の医師として作成されていることが認められ、原告は、篠田医師の診察を受けるため、右病院に通院していたと推察される。
また、右治療費には、整形外科以外の診療科も含まれているが、前記認定のとおり他科の受診は篠田医師の紹介によるものであること、バレーリユー症候群は、多彩な症状が出現することに鑑みると、整形外科以外の診療科の治療費も、本件事故と因果関係のある損害というべきである。
(三) 証拠(甲一七、一九の1ないし3、二〇、原告本人)によると、原告は平成三年(一九九一年)八月一二日から同年一〇月一二日まで、同四年(一九九二年)三月一二日から同年七月一三日まで、母国であるパキスタンに帰国し、現地の病院で検査、治療を受けていることが認められるが、その治療が本件事故と因果関係があることを認めるのには、右書証に現れた記載では十分ではなく、それらを損害と認めることはできない。
2 通院交通費
(一) 原告は、空間恐怖のため公共交通機関を利用できないとして、通院交通費としてタクシー代を請求するが、空間恐怖はタクシー、エレベーター、電車、人混み等の空間に対する恐怖であり、それ自体がタクシー利用の正当性を基礎づける事由とはいいがたい。
そこで、通院一日当たり一万円を通院交通費として認めることとし、その通院日数は本件事故日から平成六年一月二〇日まで合計八二日間であることは前記認定のとおりであり、八二万円を本件事故と因果関係がある通院交通費として認める(なお、原告は平成四年七月二〇日以降の通院交通費として、七六万九九四〇円を請求しているが、後記のとおり、被告らは通院交通費として二二万九〇三〇円を弁済しており、本件事故日から通院交通費を算定した。)。
(二) パキスタンにおける通院交通費については、前記認定のとおりその治療が本件事故と因果関係があるとまでは認めることができないから、通院交通費も因果関係を認めることはできない。
3 帰国費用
(一) 前記認定のとおり、原告は平成五年七月、篠田医師の勧めでパキスタンに帰国し、現地で精神科医の治療を受けて、再来日したが右症状は部分寛解まで回復したことが認められる。このように、医師の勧めがあり、現に治療効果が認められたのであるから、この帰国費用は本件事故と因果関係のある損害というべきである。
証拠(甲三七、弁論の全趣旨)によると、パキスタンのカラチまでの往復航空運賃は三〇万三二〇〇円であると認められ、当時の東京から成田までの公共交通機関の運賃は往復五〇〇〇円(片道二五〇〇円)を超えないと考えられ、その合計三〇万八二〇〇円を本件事故と因果関係のある損害と認める。
なお、東京から成田までのタクシー代はその必要性を認めることができない。
(二) 平成四年の帰国については、証拠(原告本人、弁論の全趣旨)によると、保険会社の勧めで帰国し、その費用は保険会社が負担したことが認められるが、その帰国を勧めた趣旨が明らかではなく、再来日に要する費用を損害と認めることができない。
4 休業損害
(一) 証拠(甲一、三ないし六、二四、二五、二八、二九、三二、三三の1ないし3、三四の1、2、原告本人)によると次の事実が認められる。
(1) 原告は一九四七年(昭和二二年)八月一四日生まれのパキスタン人である。昭和六一年八月に来日して、原告の兄弟が経営するペルシヤン・オリエンタル・カーペツト有限会社に勤務するようになり、ジユータンの販売を担当していた。
(2) 本件事故直前の原告の給料は、一ケ月二三万円であつたが、平成三年六月からは一ケ月に三〇万円に増額される予定であり、また、賞与も夏期二ケ月分、冬期が三ケ月分が支払われる予定であつた。
本件事故後、原告は就労しておらず勤務先から給料の支払いを受けていない。
(3) 本件事故により原告は、バレーリユー症候群のほか空間恐怖を伴う恐怖性障害などの精神科的な症状を呈していた。
原告の担当医である篠田医師は、平成四年八月には、原告の症状は同年秋位でほぼ症状固定状態としてよいと思われるとの見通しを持つており、同年一〇月には就労を指示した。原告は、その指示により軽いジユータンを持ち運ぶなどの軽度な仕事をしたが、その後症状は増悪した。
(4) 原告の症状は、平成五年四月には軽症程度までに回復したが、同年五月に再び悪化し、再び中等度から重度となり、篠田医師の帰国の勧めにしたがつて、一時パキスタンに帰国し、現地で精神科医の治療を受けて、再来日した。
(5) 篠田医師は、原告の症状によると平成四年一一月か一二月ころまでは就労は不能と判断し、その後同年一二月末ころから平成五年一月位からは就労制限的な状態になつたと考えている。その労働制限については、事務労働が一時間程度でそれ以上は継続が困難であると判断している。
(二) 右事実に前記認定の事実(第三、一)を総合すると、原告は二三万円の月給を得ており、これに賞与として夏冬合計五ケ月分を加えると年収三九一万円が得られる蓋然性があつたと推認でき(月給の七万円の増額については、賞与支給の確実性に比較すると、その程度は低いものであり、月給を三〇万円と認めることはできない。)、休業期間としては、平成四年一二月末までは労働不能期間として全休として扱い、平成五年一月から同年一二月までは、その症状に鑑みると二〇パーセントの労働不能と認めるのが相当である。
原告は平成四年三月以降の休業損害を請求するから、症状固定日を含む月である平成六年一月の前月である平成五年一二月までを休業期間として休業損害を算定すると、その額は四二三万二〇〇〇円となる。
(230,000×10+230,000×5)+(230,000×12+230,000×5)×20%=4,232,000
(三) 被告らは、原告はペルシヤン・オリエンタル・カーペツト有限会社の経営に参画し、本件事故後も同社から給料の支払いを受けている旨主張し、乙三、九、一一を提出するが、前記の認定を覆すに足りない。
5 逸失利益
前記認定の原告の症状固定時の症状、後遺症の程度、原告の年齢、職業を勘案すると原告は後遺症により、労働能力を五パーセント喪失したものと認めるのが相当である。
なお、原告は二〇パーセント労働能力を喪失した旨主張するが、頸椎の運動制限は、頸椎の器質的変化によるものとは認められず(甲三三の3によると篠田医師は、原告に見られる頸椎の変形を変形性頸椎症の病名を付ける程度のものではなく、また、その変形が原告の症状に寄与していないと判断している。)、また、バレーリユー症候群は自律神経症状であることは前記認定のとおりであり、頸椎等に器質的変化が認められないのであつて、五パーセントを超える労働能力の喪失があるというのは相当でない。
また、原告の症状の内容、程度、年齢、職業、今後の症状の見通しなどを総合考慮すると、労働能力喪失期間は一〇年とするのが相当である。
前記認定のとおり原告は本件事故前に三九一万円の年収が見込まれていたのであるから、ライプニツツ方式により中間利息を控除すると逸失利益は一五〇万九五九二円となる。
3,910,000×5%×7.7217=1,509,592
6 慰謝料
原告の傷病内容、通院治療経過、後遺症の内容、程度、本件事故の態様など本件記録に顕れた事情を総合考慮すると、原告の本件事故による苦痛を慰謝するには二〇〇万円が相当である。
7 損害の填補
(一) 原告が合計一〇〇万円を受領していることは争いがない。
(二) 乙一五によると通院交通費として二二万九〇三〇円が支払われていることが認められる。本件事故日から症状固定日までの通院交通費は八二万円であり、これから控除するのが相当である。
(三) 被告らは東京高裁における仮処分により一二〇万円を支払つた旨主張し、原告もその事実自体は争わないが、右は仮処分に基づくもので、本案において認容されるまでの仮の処分であるからこれを控除しない。
8 弁護士費用
原告が本件訴訟の提起、遂行を原告代理人に委任したことは当裁判所に顕著であるところ、本件事案の内容、審理経緯及び認容額等の諸事情に鑑みると、原告の本件訴訟遂行に要した弁護士費用は、原告に八〇万円を認めるのが相当である。
三 素因減額
被告らは、原告の症状が通常の外傷患者では訴えの少ない頭痛、不眠、めまい、視力障害その他の多彩な症状であること、精神科を受診して、外傷性ストレス障害と診断されていることを根拠として、心因性因子が強く影響、混入、増幅している旨主張する。しかし、被告らの主張は、事故の結果自体から抽象的に心因性因子の存在を主張するものであつて、原告の性格、気質、その他の具体的な心因性要素の主張が明確でない。たしかに、原告の症状から何らかの心因的要因の関与を完全に否定することはできないものの、本件の証拠関係において、その具体的な要素の存在、その要素の症状への関与のメカニズムを確定することはできない。
また、被告らの主張する経年性の変化については、篠田医師は、原告に見られる頸椎の変形性頸椎症の病名を付ける程度のものではなく、その変形が原告の症状に寄与していないと判断しており(甲三三の3)、本件証拠において原告の上肢の知覚低下、腱反射低下など頸神経根の圧迫を示す他覚的所見は見いだせず、頸椎の右変形が原告の症状の原因となつているとはいえない。
さらに、モラル因子については、被告らは原告が賠償のことを気にしていることを根拠とするが、交通事故の被害者が事故による後遺症などの不安を抱えて、損害賠償のことを気にするのは当然の事理であり、そのことをもつて過失相殺の法理を適用して減額をすることはできない。
被告らの主張するその他の減額要素はその事実が認められない。
よつて、被告らの主張は、いずれも理由がないから、素因減額はしないことにする。
四 まとめ
以上によると、原告の請求は被告らに対し、八六七万七四二九円及びこれに対する本件事故日である平成三年四月二七日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度で理由があるから認容し、その余は理由がないから棄却する。
(裁判官 竹内純一)
損害計算書 5―20172 東京地裁民事27部ろ係